本館竣工100周年記念
綱町三井倶楽部物語
綱町三井倶楽部物語1

近代化・西洋化を進める三井が求めた西洋式迎賓館

 大正2年(1913年)12月に竣工し平成25年(2013年)に100周年を迎えた綱町三井倶楽部本館。この建物は、三井家の迎賓館として建てられたもので、建設当初は三井家綱町別邸、あるいは綱町別邸とも称されていた。イギリス人建築家のジョサイア・コンドル晩年の名作であり、関東大震災や太平洋戦争下での惨事を経て、現在も三井グループの会員制倶楽部としての役割を果たしている。

三井家綱町別邸の建設理由

 明治42年(1909年)三井の各事業を統括する「三井合名会社」が設立される。初代社長には三井家総領家第十代当主・三井八郎右衛門髙棟が就任。これに伴い同年12月、三田綱町の6,822坪は三井合名の所有地となった。三井家がいつ頃から綱町別邸の構想を温めていたのか、また着工時期においても明確な記録が残されていないが、工事の経費伝票などの日付から明治43年(1910年)1月には着工され、ジョサイア・コンドルによる設計はその数か月前から始まっていたものと思われる。建設の理由として、従来は髙棟が明治43年(1910年)4月に欧米視察旅行に出かけ、外遊で目にした欧米諸国の迎賓館の影響により、賓客接待用の施設として綱町別邸が建設されたといわれていたが、実際には欧米視察旅行前に着工されていた。

三井合名にふさわしい迎賓館を

 三井家にはそれ以前から集会あるいは饗応のための施設があった。三井集会所とよばれる有楽町に建つ施設で、明治27年(1894年)に落成。三井家の接待所をして用いられ、知名人の応接で賑わったという。この建物は、江戸時代の大名御殿を思わせる木造平屋建ての純然たる木造建築であった。さらにここには、明治32年(1899年)1月に洋式を加味した宮殿式和風平屋建ての新館が建築されている。そして明治43年(1910年)、三井合名の設立を追うかのように起工された綱町別邸が、ジョサイア・コンドルの設計による本格的な洋館であったことは、それぞれの時期における三井家が必要とした最高の格式をもった饗応施設の姿を示しているように思われる。御殿から宮殿へ、そして洋館へ。綱町別邸は、有楽町の三井集会所を近代化し、西欧化し、三井合名にふさわしい施設とするものだったのである。綱町別邸の使用はじつは限られた場合のみのもので、具体的には、三井家の家憲の朗読式、年賀奉祝(互礼会)、三井家家長の婚礼、外国賓客の接待などの重要な行事の際の会場であり、年6,7回使用されたにすぎない。そのため、当時の三井合名の社員といえども足を踏み入れたことがない人たちも多くいた。

綱町別邸から綱町三井倶楽部へ

 綱町別邸の転機となったのが太平洋戦争。終戦後、米軍に接収されていた綱町別邸は、昭和28年(1953年)にようやく返還され、同年10月5日、会員制の「綱町三井倶楽部」として新たな道を歩み始めることになる。

 その主な用途は、三井グループの賓客接待所であり、さらに利用各社間の友好、親睦促進を目的とした。現在では、結婚披露宴などにも利用されており、三井グループの迎賓館となっている。

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